アンフィルム青年日記

口だけ達者な20代若者が「低品質・大量生産」というスタンスでアクセスを愚直に獲得していくブログ。お問い合わせはunfilmoui@gmail.comまで。


認知症のおばあちゃんが死んだ

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(入院中の病院の売店で買って読んだ)
 

先日、おばあちゃんが亡くなった。認知症だった。90歳近く。天寿を全うしたと言える。突然の出来事だったが、突然ではなかった。気付いていなかったが、私の心はすでに準備できていた。おばあちゃんが認知症なって病状が悪化する度に、ばあちゃんに対する執着心というのが確実に消えていっていた。

 
 
お葬式は一滴の涙も出さずに終わった。家族が亡くなったのに涙が出なかったのは、これが初めてだった。お経を聴きながら、おばあちゃんとの日々を回顧した。「初めて飲んだ紅茶はおばあちゃんとだったなぁ~」とか「おばあちゃんの白ワインを隠れて飲んだなぁ~」とか、記憶の奥底に埋まっていた何でもないシーンが頭に浮かんでくるのだ。
 
 
しかし涙は出ようしなかった。私はその理由を帰りの車で考えた。「多分、私の中のおばあちゃんはすでに死んでいたんだな」と思った。これは冷酷すぎる考え方だと嫌になったが、これ以外の答えを見つけることはできなかった。
 
 
私のおばあちゃんは認知症が進み、自分では何もできない中、施設で長い時間を過ごした。私は定期的に会いに行った。それでも、最初の頃は「なんとなく」私のことを覚えていたが、最後には私のことをすっかり忘れてしまっていた。私が誰であるか、そんなことはどうでもいいのだ。「私がおばあちゃんに会いにいく」という事実を体験するためだけに私はおばあちゃんに会いに行った。
 
「認知症になってまで生きたいか?」
 
私はよくこの問題について考える。実際に、家族の一員が認知症になったら、周りは精神的・肉体的・経済的負担を負わなければいけない。「あなたが介護して」なんて責任の擦り合いになるかもしれない。介護施設を送るといっても、本人が反対すれば実現が難しい。実際に施設に入るにも金がいる。
 
 
人間の最期はどんな場合でも処理にお金も時間も掛かる。これは仕方がない。認知症は人間の最期の中でも最も厄介な部類に入ると私は考えている。他に持病がなければ、すぐに死ぬわけではなく、ただ忘れていく。最終的にはベッドの上で過ごすことになるのだか、その過程では暴力的になったり、大きな声を出したり、勝手に歩き始めて帰って来なかったり、と介護する側は非常に大変である。
 
もし大切な人が認知症になったら?できれば考えたくない問題であるが、人生100年時代と言われる現代では、この問いに避けて通ることはできない。
 
 
「できれば考える力を残して死にたい」
私はそう思っています。